武士道は何処に

武士道は何処に
 
◆武士道は何処に
 加藤政局は全くの低レベル茶番劇に終わったが、何かの対談記事で読んだことがある。加藤紘一の尊敬する人物は新渡戸稲造であるということだ。永田町の魑魅魍魎とした面々
のやりとりを劇画風に見せられると、本当にわかっているのかという気がする。今後の政
局の動きは民主党に軸足が動いていくことになる。
 健全な社会を創り責任ある強力な地盤を確保するために、必要とされるものは何か。そ
れは「かくあるべし」という意志力と行動を裏付ける倫理的な大義の存在である。マスコ
ミに踊らされインターネットにおもねる軽さではない。意志力とは何か。簡単にいえば
「自律心」である。どれほど頭脳明晰で毛並みがよかろうと、この「自律心」がなけれ
ば、ことは成就できない。この自律心という徳が武士道である。
 『武士道』の著者である新渡戸稲造は、武士道を「勇猛果敢なフェア・プレーの精神」
と規定している。すなわち、不正や卑劣な行動を禁じ、死をも恐れない正義を遂行する精
神である。
 武士道は長い封建社会の中で、士農工商のトップに位置する特権階級の武士が守るべき
道徳律として誕生した。しかし、その崇高なる精神は、武士だけではなく一般庶民にまで
広がり、広く人倫の道となったことも事実である。
 武士道の根源は儒教にあり、その儒教は人が人として守るべき精神として「仁・義・
礼・智・信」という五常の徳を説いた。そしてそれが“人の倫”として尊ばれるようにな
ると、おのずから庶民も影響を受け、それを日本人全体の行動規範としたのである。なぜ
なら、人間としての“人の倫”に武士も農民も町民も区別がないからだ。
 武士道が儒教精神ともっとも違うところは、儒教が「仁の思想」(おもいやり・やさし
さ)をトップに置いたのに対して、武士道は「義の精神」を置いたことだ。義とは「打算
や損得のないひととしての正しい道」のことである。
 したがって、武士たる者の行動基準はすべてこの義を基にして、「五常の徳」を「仁
義」「義勇」「忠義」「信義」と置き換え、さらにその集大成として「誠」の徳を最高の
位置に据えた。「誠」とは、一般的には、「まごころを尽くす」という意味だが、その字
が「言」と「成」からなるように、「言ったことを成す」との意味に転化し、ここから
「武士には二言はない」との言葉が生まれ、言行一致の行動美学となったのである。
 東洋のジパング(黄金の国)、ハラキリ、フジヤマ、ゲイシャの言葉に代表される日本
には、このような武士道という伝統があった。勤勉、実直、真実一路、というものがあっ
た。家庭においても父母を敬い、子は親に従うという秩序があった。ところが今やどうで
あろうか。戦後50年を経た今、自己中、他責、インモラル、精神病、成人の幼児化、数
え上げればきりのないことかも知れないが、しのびよる日本経済ならびに社会の崩壊の危
機の足音が確実に聞こえてきている。

◆三島由起夫の遺言
 武士道といえば、30年前の昭和1970年11月25日、三島由起夫の割腹自決事件
というのがあった。この時、「タイム」誌は表紙に三島由起夫を使って「最後の侍」「切
腹(ハラキリ)」と報道した。当時三島は世界的な作家として、ノーベル賞の候補に上る
などしており、その「ハラキリ」という特異な死は、世界中に衝撃を与えた。
 三島由起夫の楯の会の隊員宛の遺書の中に「精神の癌状態」という言葉が使われてい
る。すなわち、「日本はみせかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかえしのつかぬ癌症
状をあらわしているのに、手をこまねいていなければならなかった。…このやむかたない
痛憤を、少数者の行動を持って代表しようとしたとき…」 と表現されている。
ここで簡単に三島事件を振り返ってみると。 
 1970年11月25日、三島は自分が組織した組織「楯の会」の隊員3名を引き連れ
て、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に行き、総監に会見を申し出る。顔見知りだった
総監は、三島を迎入れたが、そこで三島は総監を縛りあげ、綿密に計画された行動にでる
のであった。その後、彼は自衛官たちを総監室下の前庭に集めて、バルコニーから、短い
演説を始める。白い垂れ幕を下ろし、ガリ版刷りの檄文をまいた。すでにこのニュース
は、マスコミの知れる所となり、上空にはヘリコプターが飛んで、三島の声は、隊員の耳
にはほとんど達しなかった。いや、ヤジと怒号が彼の義憤の声をかき消して、最後を悟っ
た三島は、総監室にとって返し、内からバリケードを築くと、えいという気合いもろとも
下腹を深さ15センチ長さ45センチに渡って切り裂き、森田腹心に促して首を介錯させ
たのであった。 
 それにしても何故、彼はこんなことをしたのか。当時の状況と受け止め方を思い起こし
てみると、それはいささか、唐突な、しかも切腹という衝撃的な方法かも知れないが、三
島流の美学をもって、高度成長のひずみと、拝金主義の定着した日本と日本人を目覚めさ
せようとしたには、行き過ぎだったのではないかという程度の理解であった。
 それから30年を経て、あらためて先の三島の手紙にある「魂のとりかえしのつかぬ癌
症状」という言葉を思い起こして見ると、三島は既に今日を予期していたのか、という感
慨にとりつかれる。
 いまや、日本は自民党政権が終末の崩壊時期を迎え、族議員と官僚のやり放題で、国の
財源、資産を牛耳り、民主主義とは名ばかりの、成長性のない「いびつな共産主義国家」
となってしまった。税金は野放図に上がり、足らなくなれば新税のオンパレード。武士は
食わねどの心意気はとうになく、利益誘導型の財政の結末は、国民一人当たりに換算して
650万円もの借金を作ってしまった。失政すなわち経営の失敗を消費者すなわち国民に
増税で押しつけて平気な顔をしている。これが「精神の癌症状」でなくてなんであろう
か。もはや今その状態は末期的で取り返しのつかない次元まで来ているのである。その意
味で、行政改革と財政改革は待ったなしである。こういうとき、昔は百姓一揆というのが
あった。21世紀は国民一揆とでもなるのだろうか。

◆宗教に代わるものとして
 武士道は宗教に較べてわかりやすい、特に宗教的儀式に接する機会が少ない日本人の生
活形態からいって、そのように言える。葬儀の際に僧侶が訳の分からぬお経を上げ、それ
を聞くなどという構図は本来の宗教的姿とは言えない。いたずらに忍従の姿と静寂を強
い、特権を維持するというのも頂けない。その点、キリスト教の牧師の方が話も分かりや
すいし、合理的でもある。
 武士道を著した新渡戸稲造の考えを現代語で翻訳すると、
 「宗教というのは学問でもなければ理屈でもありません。また感情でもなければ単なる
意志の力でもありません。宗教というのは神に接して、神の力を受けて、これを自分に同
化して自分の身に現すことです。その方法は祈りということです。黙思ということです。
黙思によって神と交わり神に接し神の力を得てこれを自己のみに現します。自己のみに現
すということは、自分が実行するということであります。宗教を研究する方法は実行で
す。もっと詳しく言えば、黙思と実行、祈りと生活です。」これが新渡戸稲造の見た宗教
観である。黙思を重んじ、実際的、実行的なものということである。
 こういった宗教観からいえば、日本人が入りやすい道徳律はやはり武士道かなというこ
とになる。武士道も黙思的、実際的、実行的でありながら、抹香臭さがないからである。

参考:新渡戸稲造の略歴
文久 2年(1862年) 9月1日新渡戸十次郎の三男として盛岡で誕生。
明治10年(1877年) 札幌農学校に入学、クラーク博士の教えを受けキリスト教に入
信。
明治16年(1883年) 東京帝国大学に入学、英文学、理財学、統計学を学ぶ。
明治17年(1884年) アメリカへ留学。 ジョンス・ホプキンス大学入学。
明治20年(1887年) ドイツに留学。農政学、農業経済学、統計学などを研究。
明治32年(1899年) 農学博士となる。英文「武士道」を刊行。
明治39年(1906年) 法学博士となる。第一高等学校の校長に就任。
大正 2年(1913年) 東京帝国大学教授に就任。
大正 7年(1918年) 東京女子大学初代学長に就任。
大正 9年(1920年) 国際連盟事務局次長に就任。
大正15年(1926年) 貴族院議員に勅撰される。
昭和 3年(1928年) 女子経済専門学校の初代校長となる。
昭和 8年(1933年) 10月16日カナダのビクトリア市で没す。享年71歳。勲一
等瑞宝章を受ける。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください